書き初めで、子どもの夢を初めて知った。

いい年になりますように。2021年ほど、この願いがふさわしい年があったでしょうか。
世界がこれからどうなろうと、わが子の夢は叶えてあげたい。
それならまずお子さまとご一緒に、夢を「文字」にしてみることをお勧めします。
目の前に具体的な目標を掲げれば、今やるべきことが見えてくる。
書き初めは平安時代に貴族の宮中行事として生まれました。年の初めに縁起のいい方角に向かって、一年の抱負を定める。
そうすることで何事も上達が早く長続きすると言われていたのです。
夢を見にくい時代ではあるけれど、私たちには千年以上受け継がれてきた素晴らしい伝統があります。
いい年は、自分でつくればいいのです。

字はホメられて伸びる。
文部科学大臣賞まで
伸びる。

「書道で怒られた記憶は一度もありません」
2020年の文部科学大臣賞に輝いた、
高校三年生の大土日向くんは言う。
書を始めたのは6才のとき。小学校の展覧会がきっかけだった。
見に来たお母さんたちにホメられて、教室に通い始めた。
正直、最初は本気じゃなかった。
でも、失敗してもお目玉はもらわなかった。
その代わりアドバイスをもらった。字の大きさ、バランス、余白の取り方。
うまく書けるたび、ホメられるのがくせになっていく。
文部科学大臣賞だって夢じゃない。日向少年はその気になった。
それから12年。高校最後の日本書鏡院展が間近に迫る。
なのに、自分にホメられる一枚がどうしても書けない。
受験勉強の合間をぬって、締切前夜まで何十枚も粘った。
「やっぱりいちばんがいいじゃないですか」
授賞式で伸び伸びと笑う顔は、どこまでもまっすぐだった。

一筆書けば
一目置かれる、
大人になろう。

手紙を出す人も減った今、
字が上手で何かいいことがあるのだろうか?
なんて思っているそこのお父さんお母さん。
想像してみてください。
もしもあなたのお子さんが、
就職活動で達筆な履歴書を送ったとしたら。
パソコンで打った他の履歴書の中で、
かなり目立つと思いませんか?
テストや仕事で、人はこれからも字を書き続ける。
そのとき誰かの目を一瞬で奪うことができたら、
一気に好感度が上がるはず。
いわばひと目ぼれならぬ、ひと字ぼれ。
見た目の印象は、髪型や服装で取りつくろえる。
でも、手は嘘をつけない。
横棒を一本書くだけで、目の前の人が感動することもある。
字は誰でも書けるからこそ、人より上手いと得なのです。

3才も、96才も、集う道。

秋深まる十月下旬。上野の東京都美術館では、1961年より毎年、日本書鏡院展が開催されています。
3つのホールを埋めつくす、サイズも書体も異なる作品の数々。
厳しい審査をくぐり抜け、全国から集った秀作や力作を見ていると、一人ひとりの成長の跡に胸がいっぱいになります。
何よりうれしいのは、年齢の幅が広いこと。幼稚園に入ったばかりのお子さんから、百才に手が届く大ベテランまで。
字を書く楽しさとよろこびを、誰もが力いっぱい表現しています。
書の道は、一生の道。止まっても休んでも、歩き出せば必ず前進できる。
だからこそ、書には挫折も卒業もないのです。

家でたいせつに
子をはぐくむ、
と書いて「字」。

「字」という漢字は、家を表す「宀(うかんむり)」の下に子と書きます。
古代中国では子どもが生まれると、
先祖を祀る霊廟に赴き出産を報告しました。
「字」とは元来、そこで行われた命名の儀式を表す象形であり、
のちに「養う」という意味をもつようになったと言われています。
健康で丈夫に育ちますように。みんなに愛される人になりますように。
どんな名前にも親が子どもに託した切なる願いが込められています。
もしも今、あなたがお子さまの悪筆に悩んでいるとしたら。
まず名前の練習から、いっしょに始めてみてはいかがでしょうか。
自分の名前は、一生でいちばん長くつきあう字。
込められた想いを大切に、いつまでも美しく書き続けて欲しい。
育児とはときに、育字なのかもしれません。

鉛筆の正しい持ち方が、
子どもの芯を強くする。

うちの子、どうして集中力がないんだろう?
それは「鉛筆の持ち方」のせいかもしれません。
文部科学省の調査によると、鉛筆を正しく持てる子の割合は、
どの学年でも1割未満。親の世代でも3割に満たないそうです。
鉛筆を正しく持つと、字を書くとき疲れないし、姿勢も崩れない。
集中力も長続きするから、当然良い成績につながります。
筆圧をまだうまく調節できない子どもたちの手。
その想いの強さを受け止める強度が、鉛筆にはあります。
手首・指・肩にある30以上の関節と50以上の筋肉が連動した、
字を書くという簡単で複雑な行為を、たった1本で受け止める。
そんな芯の強さも、鉛筆の正しい持ち方を通じて育みます。

1998年、中国西安で行われた建碑式式典に2代目会長・長谷川耕生が招待される。

ひと筆の、
パスポート。

いつか子どもが留学やホームステイに旅立つときは、
どうか筆と墨を持たせてほしい。
自己紹介のあと、きっと相手は聞くだろう。
日本語でわたしの名前はなんて書くの?
すかさず筆と墨を取り出し、一筆したためる。
ツカミはOK。一発でみんなの人気者だ。
日本語を使う国は世界に一つしかない。
でも私たちには五万を超える漢字、五十の仮名、六つの書体、
そして書くことを芸術にまで高めた一本の道がある。
書の道は、国境を超える。

子どもには
字で苦労させたくない、
と自分の字を見て思う。

小四の娘のテストが帰ってきた。また字が汚くて減点されている。
「れ」なのか、「わ」なのか。「0」なのか、「6」なのか。
書いた本人も読めないほど、ミミズがのたうちまわっている。
「もっときれいに書きなさい!」そういう自分も悪筆では負けない。
調べたところによると、字は遺伝しないらしい。
きれいな字を書ける子は、親のきれいな字を見て育つからだと言う。
なら、わが子の字がヘタなのは私のせいか。
汚い字で書くことは、汚い口調で話すのと同じだ。
受験の採点官は、娘の暗号のような字をきっと解読しないだろう。
今からでも遅くない。せめて丁寧に書く練習が必要だと思った。

半紙に映るわたしは、
妻の顔をしていない。

30代女子はラクじゃない。仕事も家庭もどっちも大事。
SNSでは同級生や同僚の出産・育児報告が後を絶たない。
匂わせとマウンティングに満ちたキラキラな自己顕示欲。
はっきり言って鬱陶しい。でも、気にならないと言ったら嘘になる。
嫉妬。反発。焦り。自分探しの迷路の中で、私は静かに筆をとる。
書に嘘はつけない。だから目の前の字に意識を集中する。
次第に頭の中のノイズが晴れ、一文字一文字が整っていく。
妻でもOLでもない、ニュートラルな時間。
いつか心の曇りがとれるまで自分をピカピカに磨き上げたら、
書にはどんな私が映るだろう。

書は、在宅に効く。

外出を心から楽しめない不安な日々が続く。
しかし書家の多くは、心身ともに穏やかな
暮らしを送れているようだ。
墨汁で済まさず、丁寧に墨を磨る。
時間を気にせず、ゆっくり書と向き合う。
「三密」とは無縁の、一人だけの密な時間。
もしも今、少しでも不安を感じているなら、
どうか頭を抱えるその手で書いて欲しい。

両手を広げた人が三にん、
あなたをやさしく迎えてくれる。
ポイントは、左右の「足」を大きく払うこと。
払うは、祓う。
筆が不安をバッサバッサと祓い落としていく。
世界がこれからどう変わろうと大丈夫。
私たちには在宅という贅沢がある。

子どもの頃、先生が黒板に書いた字は美しかった。
自分もいつかあんなキレイな字が書けると信じていた。
でも残念なことに、字はなんとなく上手くならない。
入社時には手書きだった書類が、ワープロになり、
パソコンに変わると、字を書く機会はますます減った。
先日、定年退職の手続きを画面でしながら、ふと怖くなった。
もしかして自分は一生、字が下手なままなんだろうか。
60歳で始めても、80歳まで続ければ、20年のベテランになれる。
家で過ごすことがますます増えそうな今こそ、
サボり続けてきた宿題に取り組むのも悪くないと思った。

AIがぜんぜん仕事を奪いに来ない。

人工知能が、人間の仕事を奪うと言われて久しい。一説によると、2050年までに現在の仕事の半数はなくなるそうだ。
書道はどうだろう。数年前、目の手術を成功させたロボットアームのように、人の何倍もの精度をもつ「手」なら、震えることも、
集中力が途切れることもなく、完璧な字をかけるだろうか。だが、精密と繊細は違う。
どんなに形が整っていても、心のこもっていない字は虚しい。墨の香りに包まれながら、余白の美しさや余韻を楽しむ。
人間だけに許されたこのあり余る贅沢を、これからも伝え続ける。
AIに、書は100年早い。

書道とは、
余白道である。

「一字一字の中の空白がその文字を生かす全体である」
日本書鏡院の創設者、長谷川耕南は言った。
点と線。紙と墨。陰と陽。
字のあらゆる空間が適切な距離に保たれた書は、
真綿で包まれたように柔らかく、それでいて芯がある。

余白美。

それこそ私たち日本書鏡院が80年以上にわたり、
大切に受け継いできた教え。
字もまた、外見より内面。書かれた文字だけでなく、
余白に隠れた真の美しさをどれだけ見つけることができるか。
いい書は決して見飽きない。その理由がここにある。

字の成長期は、
一生つづく。

春の苑 紅にほふ 桃の花 下照る道に 出でたつ乙女
第29回日本書鏡院選抜展(2012)に選出された
この作品を書いたとき、作者の女性は100歳。
大胆な止め。迷いのない筆致。若い頃とはひと味違う、
肩の力が抜けた伸びやかな筆使いがここにはある。
書の成長は見えにくい。しかし、続ければ必ず上達する。
私たち日本書鏡院は思う。
年を重ねることが劣化であってはならない。
人生という庭が、成長のよろこびで美しく照らされるとき。
人はいつでも、少年少女に戻ることができる。

字は、人と育つ。

何を
書いてもいい
答案用紙。

書は教えてくれる。字には100点も0点もないことを。
問題は与えられるものではなく、作り出すものであることを。
そして正解に至る道のりもまた、もうひとつの答えであることを。
誰よりも早く、正しい答えを追い求めるあまり、
失敗を楽しむ気持ちを忘れていないだろうか。
うまくできない。思い通りにならない。
だからこそ、できたときの喜びは大きい。
制限時間なんて気にせず、ゆっくり、じっくり、
一文字ずつ成長していけばいい。
まわり道や寄り道や道草を楽しめる人ほど、
実りの多い豊かな時間を過ごすことができる。
それが書の道だと思うのです。

一枚の書は、
一冊の書物より
深い。

「詩仙」と崇められた中国文学史上最高の詩人、李白。
代表作「山中にて幽人と対酌す」の中で、
彼は酒を酌み交わす歓びをこう詠んだ。

一杯、一杯、また一杯。

七言絶句の型は守りながら、
同じ言葉の使用を避ける漢詩のルールを壊す。
李白ならではの自由で型破りな一文。
そこには、書の道にも通じる教えがある。
臨書に始まり、臨書に終わると言われるように。
手本となる書の筆づかいを繰り返し練習し、
書家の息づかいまで体得できてこそ、
自らの書を創り出すことができる。
型を破れるのは、型を極めた者だけだ。

ひと筆、ひと筆、またひと筆。

才能はなぞれない。

「書は反省の芸術である」
日本書鏡院の創設者、長谷川耕南は言った。
テストの答えを写しても、問題を解けたことにはならないように。
手本を上からなぞって形だけ整えても、想いのない書は虚しい。
手本は、見本にすぎない。上からうつすと、悪いクセもうつる。
大切なのは自省を繰り返しながら、
自分にしか書けない字を模索しつづけること。
たとえ一字ミスしても、次の字でバランスをとればいい。
全体の調和を保つことができれば、失敗は美しい個性に変わる。
書道という道の先にあるもの。
それは、自分らしさという才能なのだと思う。


字を探すと、自が見つかる。

いちばん難しい字は、
「一」かもしれない。

「一本の横書でも思う様に引くということは
誠に至難の芸である」
日本書鏡院の創設者、長谷川耕南は言った。

「自らの気持を線に現わすまでは、
並大抵の苦心では出来ないことで、
書道のむずかしさも、線に己の感情を現わす
むずかしさなのである」

筆先は、口先より正直だ。
迷いも畏れも、一本の線にすべてあらわれる。
シンプルだからこそ、ごまかすことができない。
それが書道の面白さであり、恐ろしさでもある。
美しいだけでは足りない。プレッシャーを乗り越え、
文字という器を想いで満たすことができたとき。
書は、いきいきとした命を宿す。

書道を学ぶ政治家は、
大臣になる可能性が高い説。

政治家ほど、手書きの字を求められる職業はない。
公約の宣言、外国の要人との会談、冠婚葬祭の記帳、
ニュース番組のフリップ、そして今年の一文字。
もしもそれがひどい悪筆だったり、こどものような丸文字だったら、
どんなに立派なことが書かれていても説得力はない。
1960年より私たち日本書鏡院は、
衆議院議員向けに書道教室「かこう会」を主催してきた。
はじめは頼りなかった筆遣いも、3年で見違えるほど上達する。
態度も堂々として、字を求められる人らしい自覚がにじみ出す。
字に責任をもつことは、言葉に責任をもつこと。
人の上に立つ人ほど、そのことをよくわかっている。
だから、決して練習を怠らない。
いつかもっと大きな言葉を書く日のために。
美しい字は、使えば使うほど増える、自分だけの財産だ。

字をかく前から、
書は始まっている。

「教」という字の本来の意味が、鞭で叩くことだと知る人は少ない。
かつて教育とは、強制的に覚えこませることだと信じられていた。
だがもはや、その考えは時代遅れだ。
上達の最良の道。それは、好きになること。
私たち日本書鏡院では、昔から子どもたちに書を教えるとき、
字の書き方より、まず字を好きになる方法をいちばんに考えてきた。
いいところをひとつでも多く見つけ、ほめる。
元気に挨拶をする。靴をきれいに並べる。正しく正座をする。
字と向き合うことで身につけた集中力や我慢強さは、
いつか必ず勉強やスポーツなど他の分野で生きてくる。
美しい字が美しい姿勢から生まれるように、学ぶ姿勢も育てたい。
書道とは教育ではない。学育である。

カキコミは、筆で。

小さな画面に、小さな文字を打ち込んでいると、
人間まで小さくなる気がする。
誰もが下を向き、背中を丸めて、
手元のスマホばかり見つめている今だからこそ。
現代人には、自分の手で大きな字を書く時間が必要だ。
墨を擦り、筆を握る。選べるフォントはひとつしかない。
クリックひとつでカンタンに削除もできない。
真剣に書と向き合う、心地よい緊張があなたを無心にする。
誰かが行った場所、食べたもの、やったことを眺めて、
「いいね!」とつぶやいていても、人生は何も変わらない。
さあ、情報の海を離れ、自分の圏外へ。
書には鏡にうつらない、もうひとりのあなたがいる。

墨を磨るは、
なぜ「擦る」では
ないのだろう。

写真の硯は、日本書鏡院の創設者・長谷川耕南のもの。
以来、三世代に渡り大切に受け継がれてきた。
最高級の硯材である端渓石でできた表面は、
手入れのよくほどこされた女性の肌に似ている。
きめ細かく密に散りばめられた鋒鋩(ほうぼう)。
キラキラと光る宝石のようなひと粒ひと粒が、
墨を早く均一に磨りおろし、水に溶かしていく。
中国政府によれば、端渓石はもう採れないそうだ。
唐の時代から千四百年間で採石され尽くしてしまったのだとか。
歴史ある貴重なものを次の世代に受け継いでいく、
その重みが書に説得力を与える。
墨を磨ることは、腕を磨くことでもある。

二万六千字の、宇宙。

折帖。それは、日本書鏡院のいのち。
創設者の長谷川耕南が四十年余の書道人生をかけ、
愛弟子のために特別に書き残した書の手本である。
楷書と草書の約二百冊から成る、
「書のバイブル」に書かれた字は二万六千を超える。
その数は、地球から肉眼で見える星の数より多い。
毎月発行している「書鏡」の課題を通じて、
すべてを書き尽くすにはあと何十年もかかるだろう。
だが大切なのは、一文字でも多く、
耕南の教えを後世に伝えるという使命。
諦めなければ、いつかその深淵にたどり着ける。
そう信じて、今日も筆をとりつづける。

絵になる字を、書く。

字は、自だ。
美しいだけでは魅力的になれない。
心が動く、その一瞬を
どこまで映し出すことができるか。
五万を超える漢字、五十音のかな、六つの書体。
世界でいちばん字の豊かな国は、
世界でいちばん字を楽しめる国。
書くことを芸術にまで高めた書道が、
日本で生まれたことは偶然ではない。
字なんて誰でも書ける。だからこそ、
誰にも書けない字をこれからも書き続ける。

いい字には、あなたがいる。