書道とは、
余白道である。

「一字一字の中の余白が、その文字を生かす全体である」
日本書鏡院の創設者、長谷川耕南は言った。
点と線。紙と墨。陰と陽。
字のあらゆる空間が適切な距離に保たれた書は、
真綿で包まれたように柔らかく、それでいて芯がある。

余白美。

それこそ私たち日本書鏡院が80年以上にわたり、
大切に受け継いできた教え。
字もまた、外見より内面。書かれた文字だけでなく、
余白に隠れた真の美しさをどれだけ見つけることができるか。
いい書は決して見飽きない。その理由がここにある。

字の成長期は、
一生つづく。

春の苑 紅にほふ 桃の花 下照る道に 出でたつ乙女
第29回日本書鏡院選抜展(2012)に選出された
この作品を書いたとき、作者の女性は100歳。
大胆な止め。迷いのない筆致。若い頃とはひと味違う、
肩の力が抜けた伸びやかな筆使いがここにはある。
書の成長は見えにくい。しかし、続ければ必ず上達する。
私たち日本書鏡院は思う。
年を重ねることが劣化であってはならない。
人生という庭が、成長のよろこびで美しく照らされるとき。
人はいつでも、少年少女に戻ることができる。

字は、人と育つ。

何を
書いてもいい
答案用紙。

書は教えてくれる。字には100点も0点もないことを。
問題は与えられるものではなく、作り出すものであることを。
そして正解に至る道のりもまた、もうひとつの答えであることを。
誰よりも早く、正しい答えを追い求めるあまり、
失敗を楽しむ気持ちを忘れていないだろうか。
うまくできない。思い通りにならない。
だからこそ、できたときの喜びは大きい。
制限時間なんて気にせず、ゆっくり、じっくり、
一文字ずつ成長していけばいい。
まわり道や寄り道や道草を楽しめる人ほど、
実りの多い豊かな時間を過ごすことができる。
それが書の道だと思うのです。

一枚の書は、
一冊の書物より
深い。

「詩仙」と崇められた中国文学史上最高の詩人、李白。
代表作「山中にて幽人と対酌す」の中で、
彼は酒を酌み交わす歓びをこう詠んだ。

一杯、一杯、また一杯。

七言絶句の型は守りながら、
同じ言葉の使用を避ける漢詩のルールを壊す。
李白ならではの自由で型破りな一文。
そこには、書の道にも通じる教えがある。
臨書に始まり、臨書に終わると言われるように。
手本となる書の筆づかいを繰り返し練習し、
書家の息づかいまで体得できてこそ、
自らの書を創り出すことができる。
型を破れるのは、型を極めた者だけだ。

ひと筆、ひと筆、またひと筆。

お手本どおりは、
まちがいです。

「書は反省の芸術である」
日本書鏡院の創設者、長谷川耕南は言った。
手本は、見本にすぎない。安易に上からうつすと、悪いクセもうつる。
大切なのは、手本どおりに書くことじゃない。
自省と試行錯誤を繰り返しながら、自分の字を模索することだ。
たとえ一字ミスしても、次の字でバランスをとればいい。
全体の調和を保つことができれば、失敗は美しい個性に変わる。
書道という道の先にあるもの。
それはきっと、自分らしい生き方なのだと思う。


字を探すと、自が見つかる。

いちばん難しい字は、
「一」かもしれない。

「一本の横書でも思うように引くと言うことは
誠に至難の芸である」
日本書鏡院の創設者、長谷川耕南は言った。

「自らの気持を線に現わすまでは、
並大抵の苦心では出来ないことで、
書道のむずかしさも、線に己の感情を現わす
むずかしさなのである」

筆先は、口先より正直だ。
迷いも畏れも、一本の線にすべてあらわれる。
シンプルだからこそ、ごまかすことができない。
それが書道の面白さであり、恐ろしさでもある。
美しいだけでは足りない。プレッシャーを乗り越え、
文字という器を想いで満たすことができたとき。
書は、いきいきとした命を宿す。

書道を学ぶ政治家は、
大臣になる可能性が高い説。

政治家ほど、手書きの字を求められる職業はない。
公約の宣言、外国の要人との会談、冠婚葬祭の記帳、
ニュース番組のフリップ、そして今年の一文字。
もしもそれがひどい悪筆だったり、こどものような丸文字だったら、
どんなに立派なことが書かれていても説得力はない。
1960年より私たち日本書鏡院は、
衆議院議員向けに書道教室「かこう会」を主催してきた。
はじめは頼りなかった筆遣いも、3年で見違えるほど上達する。
態度も堂々として、字を求められる人らしい自覚がにじみ出す。
字に責任をもつことは、言葉に責任をもつこと。
人の上に立つ人ほど、そのことをよくわかっている。
だから、決して練習を怠らない。
いつかもっと大きな言葉を書く日のために。
美しい字は、使えば使うほど増える、自分だけの財産だ。

字をかく前から、
書は始まっている。

「教」という字の本来の意味が、鞭で叩くことだと知る人は少ない。
かつて教育とは、強制的に覚えこませることだと信じられていた。
だがもはや、その考えは時代遅れだ。
上達の最良の道。それは、好きになること。
私たち日本書鏡院では、昔から子どもたちに書を教えるとき、
字の書き方より、まず字を好きになる方法をいちばんに考えてきた。
いいところをひとつでも多く見つけ、ほめる。
元気に挨拶をする。靴をきれいに並べる。正しく正座をする。
字と向き合うことで身につけた集中力や我慢強さは、
いつか必ず勉強やスポーツなど他の分野で生きてくる。
美しい字が美しい姿勢から生まれるように、学ぶ姿勢も育てたい。
書道とは教育ではない。学育である。